四街道の歴史 よもやま話17
更新:2024年4月1日
市内では物井地区の御山遺跡などで、縄文時代晩期後半から弥生時代前期の土器が出土していますが、住居跡は検出しておらず、当時のムラの様子はわかっていません。弥生時代中期(約2千年前)になると、房総半島でも水田耕作が定着し、食糧生産力が上がるとともに、中期後半には大規模なムラを形成するようになります。鹿島川流域では、住居跡200軒を超える環濠集落が六崎大崎台遺跡(佐倉市)で営まれます。
【相ノ谷(あいのや)遺跡】
この遺跡は、山梨地区の鹿島川と小名木川の合流地点を北東に望む、台地先端部に位置します。昭和54年の送電鉄塔建て替え工事に伴い、発掘調査を実施し、竪穴住居跡7軒(弥生時代5軒、古墳時代2軒)を検出しました。弥生時代の住居跡から見つかった土器は、宮ノ台式土器と呼ばれ、東海地方の影響を受けて成立したもので、南関東一帯に広く分布します。この他に、工具である「太型蛤刃石斧」や儀式に使われたと考えられる「有角石器」も出土しています。
【鹿島川の恵み】
鹿島川流域は、水田耕作に適した沖積地が多く、太田長作遺跡(佐倉市)、馬場No.‐1遺跡(本市)など弥生時代中期後半のムラ(墓域含む)が複数みつかっています。これらは住居が少なく、環濠もなく、六崎大崎台遺跡より小規模な集落ですが、相ノ谷遺跡で出土した「太型蛤刃石斧」など、六崎大崎台遺跡のものに類似したものが多く出土します。このことから、大規模なムラの人々が移動し、小規模なムラをつくったと考えられます。このことから、鹿島川の豊かな資源による生産力により成立した大規模集落が、周辺に小規模集落を生み出すといった、流域における弥生時代中期後半のムラの形成過程がわかります。
相ノ谷遺跡から出土した弥生土器(宮ノ台式土器)
太型蛤刃石斧(相ノ谷遺跡)
太型蛤刃石斧(六崎大崎台遺跡)