市史研究誌「四街道の歴史」 第11号
更新:2018年7月17日
四街道市の中世編(6)
戦国期下総国における「蕨 わらび」の位置・・・石渡 洋平
堀込城周辺主要城郭(30周年記念誌より)
四街道市域の戦国時代を語る上で、不可欠な史料があります。その史料は、某年6月18日付で「小弓公方足利義明(道哲)」が安房の戦国大名「里見上野入道(義通)」へ出した書状で、義通が帰陣した”蕨”が歴史学において和良比堀込城(四街道市和良比)に比定されています。
永正3年(1506)4月から「古河公方足利政氏・高基」の父子抗争が始まり(”永享の乱”)、同7年には「雪下殿(空然・政氏の次男・後の足利義明)」も自立的な動きをみせるようになりました。公方家の抗争は、永正15年に政氏の最大支持勢力「扇谷上杉朝良」が死去したこともあり、政氏の武蔵国久喜甘棠院隠遁によって一応の終息をみました。しかし、政氏の勢力が義明に継承され、義明と高基の間で抗争が展開されることになりました。義明は「真里谷武田氏」に擁立され、下総国小弓城(千葉市生実)に入部し、小弓公方となりました。
義明と高基の抗争は、高基の跡を継いだ「古河公方足利晴氏」と義明の争いに展開を遂げましたが、天文7年(1538)10月7日の”相模台合戦(第一次国府台合戦)”で義明が戦死したことによって、終止符が打たれ、小弓公方は滅亡しました。
公方家の抗争は里見氏・真里谷武田氏・千葉氏・扇谷上杉氏など、広く東国諸氏を巻き込んだものだっただけに、先の「足利義明書状」もその争いの一場面が記されているため、先行研究でも注目を集めてきました。
小弓公方については、近年まで”佐藤博信氏”の専論があり、”黒田基樹氏”の研究などによってさらに進展が図られました。佐藤氏以降の研究によって、先の「足利義明書状」についても、年代や地名の比定について問題提起がなされ、更に同時期に武蔵国の”蕨”も見えることから、足利義明書状の蕨も”武蔵国の蕨”と考えるべきではないかという批判も出されていました。(主に本文引用)
このような先学を踏まえ、改めて「足利義明書状」と、千葉介勝胤が”蕨”において給分を与えた発給文書「井田文書」、『千学集抜粋』にける蕨氏・坂戸氏など、戦国期における蕨及び周辺域について、房総中世史研究で活躍する”石渡洋平”氏が論考します。
- 目次
- 足利義明書状をめぐって
- 臼井領としての蕨
- 井田文書にみる蕨
- おわりに
- 協力
- 写真:権利者の許可なく転載することは法律により禁じられています
発掘調査前の西側上空より
敵の侵入を阻む巨大な土塁と空堀
四街道市の近世編(1)
武田信吉の佐倉領支配・・・柴 裕之
甲斐武田氏家紋”四つ割菱”
~豊臣期下総領域の態様~
天正18年(1590)7月、”小田原合戦”での「相模北条氏」の滅亡に伴い、豊臣政権は関東に以後の統治のための仕置を実施しました。その中で政権に従う東海地域の有力大名であった「徳川家康」が関東へ入国することとなりました。
これまで、この時期は徳川家康がのちに天下人となり江戸幕府を開設したことから、その「前史」として扱われ、十分な検討がなされてきませんでしたが、近年はこの時期を豊臣政権下の時代という独自の時代としてとらえ、その中で徳川氏の政治的立場、領国構造、江戸入部の歴史的背景などが検討され始めています。しかし、その検討はまだ端緒の段階にあり、全体像の構築には引き続き個々の領域態様の分析を積み上げていく必要があります。
下総国は、鎌倉時代以来の有力武士「千葉氏」が下総守護を務め、”享徳の乱”後の政情中の文明16年(1484)6月に「岩橋輔胤・千葉孝胤」父子は佐倉城(現本佐倉城・印旛郡酒々井町)を築き移転、以後は同城を本城に、千葉氏は地域権力として領国支配を展開しました。
しかし、千葉氏は「相模(小田原)北条氏」の下で”小田原合戦”を戦い、没落しました。これにより、千葉氏とそれに従う庶家や、臼井領域(四街道市域含)を治めていた一族の「原氏」など地域権力を失った下総国は、徳川氏のもとでその統治態様を再編されます。
その中で、鹿島城(神島城・現佐倉城・佐倉市)に入部することとなったのが徳川家康の五男で武田家を継いだ「武田信吉(万千代)」です。従って、徳川関東領国内で下総国がどのような態様としてあったかを見ていくには、信吉の存在及び彼がなぜ佐倉領(四街道市域含)に配置されたのか、またそれに伴い酒井家次が入部した臼井領域との関連などを検討する必要があります。(主に本文引用)
これらのことを踏まえて、”武田信吉の佐倉領支配”を通じて前述した”豊臣期下総領域の態様”を、戦国・近世史研究でその名を全国的に知られる”柴 裕之”氏に論考いただきます。
- 目次
- 豊臣期徳川関東領国の性格と態様
- 徳川関東領国における下総佐倉領と武田信吉
- 佐倉領支配の運営
- おわりに~豊臣期下総領域の態様とその後の展開~
- 協力
武田信吉関係略系図
四街道市の近現代編(5)
“軍郷四街道”の真相に迫る(2)・・・大矢 敏夫
東宮殿下行啓時の四街道駅北口(明治44年・町政要覧)
“軍郷四街道”への天皇・皇太子の行幸啓
前号では四街道北部の下志津原に陸軍の大砲演習場が創設された経過を、歴史的公文書をはじめとするさまざまな資料によって検証いただきました。
明治4(1871)年末に「山縣有朋」や「西郷隆盛」ら陸軍首脳部は、天保11(1840)年頃から存在していたと思われる佐倉藩の大砲演習場「火業場」「町打場」を、”他に比類のない絶好の大砲演習場”として目をつけ、地主との交渉の結果、明治5年11月に陸軍の射的演習場として使用することを決定していたことが分かりました(『明治5年公文録 第39巻』)。同時に六方野原にも演習場が設けられ、周辺を含めて拡張されていきました。
明治19(1886)年、下志津原の木戸場に「野戦砲兵射的学校」が開設され、この時から下志津原演習場は単なる諸部隊の大砲射撃演習場としてのみにとどまらず、砲兵教育と砲兵技術研究の拠点となりました。
明治20年以降、大砲の射程距離の延長・砲術の発達などに伴って演習のあり方も変化し、演習場は変貌します。明治23(1890)年には元佐倉藩士で、明治陸軍の砲兵監となっていた「大築尚志」により、それまでルボン山(大土手山・大砲標的)に向けて行われていた大砲演習を逆方向にするとともに、下志津原と六方野原を接続し拡張するよう提案がなされました(防衛研究所所蔵JACAR C06081478200)。
裕仁殿下行啓”下志津分校”飛行演習視察
明治24年3月には都賀村内の薗生・萩台・西寺山において46町4反(防衛研究所所蔵JACAR C07050318900)、同25年4月には犢橋村内小深で11町4反の買収を実現しています(同C07050400200)。
時を同じくして、陸軍の強い要請で、帝都と習志野・千葉・四街道・佐倉に連なる帝都防衛と軍事施設を結ぶ交通・輸送手段の確保のために、総武鉄道の敷設が同時並行的に進められました。その結果、明治27(1894)年7月に市川・佐倉間が開通し、同年12月9日には、射的演習のルボン山近くに「四ッ街道停車場」が開設されました。これは帝都からのアプローチが不便な下志津木戸場の陸軍野戦砲兵射的学校のルボン山近辺への移転を予定してのものです。射的学校の移転により、皇族や士官の射的学校への往来が容易になり、明治天皇や皇太子殿下の四街道行幸啓が可能になったのです。
総武鉄道開通の翌8月には”日清戦争”が始まります。鉄道開通直後の9月27日、佐倉の歩兵第2連隊を戦地に輸送するという大役を担なりました(『千葉県の歴史通史編 近現代1』306頁)。なお陸軍野戦砲兵射的学校は日清戦争開戦から翌28年3月の終戦まで閉校していました。
明治28年3月に”日清戦争”が終結し、明治29年には陸軍野戦砲兵射的学校が「陸軍野戦砲兵射撃学校」と改称されます。この背景には、日清戦争での実戦経験に基づき、これまでの射撃の技術面重視にとどまらず、戦場における戦術面も合せた教育への変化も関係しています。
のちの陸軍野戦砲兵学校と駅前北口通り上空より
明治28年11月25日には射撃演習の砲丸が新設の四ツ街道停車場のプラットホームや駅長宅に飛び込み、鉄道会社社長が陸軍大臣「大山巌」に事態改善の願書を提出するという事件が発生したことは前号で紹介しました。この事件が拍車をかけたのか、翌明治30(1897)年4月には予てのもくろみどおり、陸軍野戦砲兵射撃学校は四ッ街道停車場近辺に移転し、射撃方向を転換します。これにより帝都へのアプローチは飛躍的に向上し、同時に停車場周辺が町の形を整え始め、”軍郷四街道”が誕生します。(主に本文引用)
本稿では前号の続編として、”軍郷四街道”の経過に触れつつ、陸軍野戦砲兵射撃学校への明治天皇や皇太子殿下の行幸啓に焦点を当て、伝聞ではなく歴史的公文書等の”裏付けられた歴史資料”に基づいて、”大矢敏夫”氏に検証いただきました。
- 目次
- はじめに
- 明治天皇の野戦砲兵射撃学校行幸の目的と経緯
- 明治33年の明治天皇の四街道行幸
- 明治45年の明治天皇の四街道行幸
- 皇太子殿下の行啓(後の大正・昭和天皇)
- あとがき
- 協力
- 写真:権利者の許可なく転載することは法律により禁じられています
広大な演習地が広がる”軍郷四街道”(昭和4年)
四街道市の近現代編(6)
戦中戦後の学校と地域(2)・・・矢部 菊枝
旭中学校運動会遊技「村は土から」(昭和22年)
前回(第1部)は、明治中期から大正・昭和10年(1935)頃まで、ほとんどが聞き取りによるものでした。”支那事変”頃から”第二次世界大戦”を経て終戦までは、筆者の体験をもとに多くの人々からの協力を得て寄稿いただきました。
終戦を境に日本国中が大きく変化しましたが、今回の第2部では”軍隊の街”として栄えた”四街道の戦後”、各学校の”校歌”などを回想いただきます。
- 目次
- はじめに
- 昭和21年四和小学校が千葉女子師範の附属小中学校に統合
- 昭和22年学制改革(小6・中3・高3・大4制度)
- 昭和30年「四街道町」の誕生
- 終わりに
四街道駅北口周辺(昭和30年)
- 内容(中見出し)
- 付属小学校の校歌から思う
- 四和小学校の廃校と復活
- 父兄たちが反対したのは何故か
- 戦時中から戦後の街の様子
- 付属小学校へ統合されてから50余年
- 千葉組から地元組
- 話し合いの結果(月謝・学校の将来)
- 新制中学校(千代田・旭)
- 旭村立旭中学校と当時の地域(先生不足・品不足・食糧難)
- 昭和35年千代田中学校と旭中学校が統合、四街道中学校となった。
- 平成11年四街道中学校は現在地めいわ地区に移転
- 昭和51年四和小学校が中央小学校より分離、開校
- 昭和51年旭中学校が四街道中学校より分離、開校
- 写真:権利者の許可なく転載することは法律により禁じられています
【特集 戦後70年をふりかえって】
国民学校1年生だった私・・・峯岸 文子
四街道国民学校1年生(昭和16年)
平成27(2015)年11月18日、四街道市戦没者70周年記念追悼式が多くの関係者列席の許、市文化センターで厳かに行われた。広い祭壇一杯白い花で埋め尽くされ、父を、息子を、兄弟を先の戦争で亡くした遺族の一人一人が壇上で献花をした。私は初めて妹と参列した。祭壇に向うと、70年を経てなお熱くこみ上げてくるものがあった。
終戦の日、私は10歳、昭和17(1942)年二度目の出征をした父は、戦地のどこにいるのかわからなかった。銃後を守る母は、10歳、9歳5歳の子を抱え、戦時下家業の時計店を必死に続けていた。
昭和16年4月、私は四街道国民学校に入学した。その年の12月8日、日本は太平洋戦争に突入した。(本文引用・本文へ続く)
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【特集 戦後70年をふりかえって】
昭和30年代の四街道・・・樋口 誠太郎
千葉大教育学部本館(旧野砲校)から校庭を
偶然にも、私はかつてこの四街道にあった千葉大学教育学部二部の学生寮に、昭和30年度生として入寮しました。平成27年は、昭和30(1955)年に「四街道町」が誕生してから60年ということで、当時の様子について、ふりかえってみたいと思います。(本文引用・本文へ続く)
- 目次
- 軍郷都市から文教都市への変貌
- 周辺の様子から
- 開拓地としての四街道
- 四街道駅について
- 写真:権利者の許可なく転載することは法律により禁じられています
【特集 戦後70年をふりかえって】
千代田団地のこと・・・福井 孝
地域の生活を支えた”千代田商店街”(昭和55年頃)
市内三番目に造成された「千代田団地」は、昭和44(1969)年~同48年までに整えられました。ちなみに旭ヶ丘団地は昭和41年、みそら団地は昭和43年が始まりで、やがて半世紀になります。
昭和45年12月15日には、字名の一部がその歴史とともに永遠に消えました。幸いにも「八木原」は学校名となり、また近隣公園名として残されたのは、関係各位の一方ならぬ配慮があったことを聞き及んだところです。
昭和53年には、合計2,418戸に灯りが入り、市内随一の夜景を見ることになりました。(本文引用・本文へ続く)
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【資料紹介】
四街道における町村合併問題について・・・中村 政弘
千代田町役場四街道出張所作成資料(昭和28年)
~昭和の大合併から~
町村合併では、「明治」「昭和」「平成」の年号をつけた合併が歴史上有名です。ここでは、四街道町の誕生(昭和30年・1955年)前後の「昭和」の大合併を取上げます。この時期に印旛郡(四街道)地域では、どのような動向があったのか、資料構成によって検討します。
千葉県では、戦後の町村長の退職増加(六三制、自治体警察などによる財政圧迫)によって財政強化のために町村合併が検討されていました。このような危機感を背景として、1949年4月には各地方事務所長に町村合併を促す指示を県が出しています。千葉県町村会も自治体運営を打破する方法として町村合併が要望されました。
1952年2月には、県は各郡に町村合併のための協議会(委員会)を組織するよう各地方事務所に指示を行い、4月には町村合併促進指導要綱ができあがりました。
8月には千葉県議会で「町村規模適正化促進に関する」決議が可決されました。この8月には、「町村規模適正化試案作成方針大綱」(人口1万3000~3万3000人)が作成され、印旛郡では30町村から10町村へと富里村を除く19町村を減少するものでした。
さらに、9月には千葉県町村規模適正化促進審議会が設置されました。(本文引用・本文へ続く)
- 協力
- 写真:権利者の許可なく転載することは法律により禁じられています
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