市史研究誌「四街道の歴史」 第12号
更新:2018年6月20日
四街道市の古代編(2)
古代山梨郷の拠点集落(栗田 則久)
南作遺跡7号住居跡から出土した三彩小壺
成山地区南作遺跡の検討から
現在の四街道市域は、古代の下総国千葉郡山梨郷と物部郷に属すると考えられます。近年、市内の成台中土地区画整理事業と物井地区土地区画整理事業に伴って多くの遺跡が調査される中で、山梨郷と物部郷の拠点集落となる奈良・平安時代の大規模な遺跡が確認されました。山梨郷の南作遺跡と物部郷の小屋ノ内遺跡・稲荷塚遺跡がその拠点集落に相当する遺跡と考えられます。本論では、成山地区に所在する南作遺跡について検討してみます。(主に本文引用・以下本文に続く)
- 目次
- はじめに
- 律令時代の地方支配
- 成台中地区内の古墳時代以降の遺跡
- 南作遺跡の調査概要
- 出土土器からみた集落の動向
- 掘立柱建物
- 出土遺物から見た遺跡の特徴
- 生産
- 南作遺跡の性格
- おわりに
四街道市の近現代編(7)
下志津と陸軍航空の黎明(森 伸之)
陸軍航空学校下志津分校本部(大正12年・個人所蔵)
第1次世界大戦(1914年から1918年)は史上最初の世界大戦であり、植民地と覇権をめぐる帝国主義国同士の戦いであるとともに、兵器や装備の面でも機械化、高度化が進み、例えば塹壕戦を勝ち抜くために戦車が本格的に使われるようになり、近代戦の幕開けとでもいうべき戦いであった。非人道的な兵器の代表である毒ガスも、1915(大正4)年4月のベルギーにおける第二次イープルの戦いで、ドイツ軍によってイギリス軍に対して使用されたのち、広く使用されるようになりました。
第1次世界大戦以降、様々な兵器が登場する近代戦が本格的に展開するようになり、近代戦に適応するように軍隊の組織や兵科のあり方も変わってきたのは周知の通りである。第1次世界大戦を契機として、戦争は単なる武力戦のみならず、政治、経済、文化などの国家の総力をあげた国家総力戦と考えられ、戦闘そのものにも巨大な集団軍隊、飛行機、戦車、機関銃などの新兵器が出現、それに伴う戦術が利用されるようになり、大戦後の軍縮を経て軍制改革、編制装備、戦術を含めた急速な改革を迫られた日本陸軍にも大きな影響を与えました。
日本陸軍で航空機が軍用として本格的に活用されるのも、この頃です。千葉県において、その頃フランス航空団が来日し、下志津に偵察観測班が設置され、後に陸軍航空の担い手を育成する下志津の陸軍航空学校分校が開設されました。下志津でのフランス航空団の活動やそれを迎えた地元の人々については、「四街道町史 兵事編 上巻」(四街道町)に詳しく、また後の下志津陸軍飛行学校の撮影した航空写真については、「千葉いまむかし」第23号の「下志津陸軍飛行学校の航空写真について」(簗瀬裕一文責・千葉市教育委員会)といった先行研究がありますが、下志津で行われた陸軍航空兵科の偵察教育の内容については、余り研究されていないと思われます。以降、陸軍航空の黎明と下志津の地での航空教育、下志津校が担うことになる研究・訓練等の実際について見て行くことにします。(主に本文引用・以下本文に続く)
- 目次
- 第1次世界大戦と陸軍航空部隊の誕生
- 下志津営地の誕生と発展
- 陸軍航空学校下志津分校の開校
- 下志津における航空教育の内容
- 下志津と「航空兵の歌」
- 下志津における調査・研究訓練活動と毒ガス関連
- 下志津陸軍飛行学校の改編と閉校まで
四街道市の近現代編(8)
定時制分校昼間課程に関する一考察(海老沼 宏始)
四街道分校を例として
定時制高校は新制高等学校誕生期に、戦後の帰農者増大や交通事情などから「主として農業に従事する勤労青少年を対象」とし、「地域を基盤として成する地域学校でなければならない」として設置され、四年間の修業を基本としました。定時制は地方財政の窮状、地域社会の要望や熱意、授業形態の適否等に大きく左右され、夜間か昼間かの決定は地域社会の特性によりました。千葉県の高校進学率は通常(全日制)課程33.6%に対し、定時制課程は5.4%、その計は39.0%(昭和26年度全国平均47.7%、全国30位)と低く、定時制生徒に限れば、徒歩や自転車で通う生徒が約8割を占めて「近場の地域」と密接に関連しています。しかも、次男、次女以下が約60%と、長男、長女40%を上回り、「いずれ仕事を求め都会へ出て行く」ために、知識・教養・資格を修得せざるを得ない農村等の事情がありました。その年齢構成は20歳以上が約1割を占め、定時制生徒の95%が卒業を目指していました。
本稿は、分校ブームで「教育の機会均等」を補完した分校が一気に改廃されていく中で、全国的に珍しいとされる定時制分校昼間課程普通科が、そのまま独立を遂げた四街道高校を例に、分校昼間課程の実態や全日制への道程を考察するものです。(主に本文引用・以下本文に続く)
- 目次
- 分校ブームの到来
- 定時制分校の状況
- 地域が支えた四街道分校
資料紹介
井岡家屏風裏張り文書(市史編さん協力員:大矢 敏夫)
佐倉藩の「御用状」を読み解く
四街道市長岡地区の井岡敬則家文書は、数次にわたる追加文書の整理を経て、平成29年10月に累計5,524点の古文書の整理を終了しました。
ところがその直後に同家より、使用していない古い屏風1隻の破れ目から、多数の古文書が裏張りされているのを発見した、との連絡を受けました。そこでさっそく井岡家を訪問し、第二庁舎でお預かりして、整理に取り掛かることにしました。そして平成29年11月をもって整理が終了いたしました。
この屏風裏張り文書の整理により点数は206点で、井岡家文書の累計点数は5,843点となり、現時点では市内最大の文書群となりました。
この屏風は1隻6曲のもので、屏風一曲のサイズは、縦166.5センチメートル、横59.5センチメートルの大型のものです。描かれていた山水画は井岡家で保存していただき、枠組みについても後日返却いたしましたが、この屏風は井岡家において補修再生されています。
これまで整理してきた井岡家文書のほとんどは、いわゆる近世の名主文書や近代の公的な文書、井岡家固有の私的文書で、長岡村や井岡家に関わる資料ばかりでした。
ところが、今回整理した井岡家屏風裏張り文書は、同家のこれまでの古文書とは異なり、いわゆる武家文書に該当するもので、長岡村や井岡家に関わる資料はありませんでした。そしてその大半は幕末の佐倉藩堀田家家臣の間で交わされた御用状や、維新後の元家臣のものと思われる書簡で占められていました。(主に本文引用・以下本文に続く)
- 目次
- はじめに
- 井岡家屏風裏張り文書の整理と概要
- 御用状の年代推定一 堀田家の幕府御用から
- 御用状の年代推定二 堀田家ゆかりの人物から
- 御用状の年代推定三 堀田家家族・家臣の「引越」から
- 御用状の受取人・差出人
- おわりに
内閣官房「明治150年」(明治の歩みをつなぐ、伝える)
明治時代の四ッ街道 絵葉書を掲載
陸軍野戦砲兵射撃学校行幸紀念(明治42年4月5日刻印・個人蔵)
平成30年(2018年)は、明治元年(1868年)から起算して満150年に当たります。政府では、「明治150年」関連施策として、地方公共団体や民間も含めて、全国で取組を推進しています。ホームページを御覧下さい。
販売価格
500円(税込)
- 社会教育課(第二庁舎1階市民ギャラリー隣)等で販売しています。
- 土曜・日曜日、祝日は販売していません。
- 社会教育課、または市立図書館・公民館・県立図書館等にて閲覧可能です。
- 通信販売可能です。詳細はお問い合わせください。
販売所在地
- 〒284-0003 四街道市鹿渡2001番地10
- 四街道市役所第二庁舎1階
- 四街道市教育委員会教育部社会教育課
- 四街道駅より徒歩5分
四街道市役所第二庁舎の地図
お問い合わせ
教育委員会教育部 社会教育課
市史研究誌「四街道の歴史」第12号まで
電話:043-424-8934
FAX:043-424-8935