四街道の歴史 よもやま話16
更新:2024年4月1日
発掘された縄文のムラ
氷河期下の旧石器時代には、人々は、ナウマン象やシカ・イノシシなどの動物を狩猟対象として、移動する生活を送っていました。縄文時代になると気候が温暖化し、動物以外にも、木の実や魚などの豊かな食糧資源を身近な場所で容易に手に入れることができるようになり、共同で生活を営むムラ(集落)を形成します。特に、縄文時代中期頃は規模の大きなムラが各地で確認されています。今回は、ムラのほぼ全体が発掘された成山地区の南作遺跡を、その一例として紹介します。
南作遺跡
よもやま話3で、奈良・平安時代の集落と、「山梨」という地名が書かれた墨書土器等を紹介しました。この遺跡は、縄文時代にも竪穴住居跡(25軒)や貯蔵穴(67基)などの遺構が確認されており、中でも貯蔵穴が目立っています。この貯蔵穴は、口が狭く、底が広い三角フラスコのような断面形をなすことから、「フラスコ状土坑」と呼ばれています。穴の中の温度が一定に保たれることから、木の実などの貯蔵施設と考えられています。多くの貯蔵穴がムラの人々の食生活を支えていたのでしょう。
この遺跡から出土した土器は、ほとんどが縄文時代中期中葉の阿玉台3~4式期のもので、比較的短期間に営まれたムラと考えられています。また、西関東や北陸地方などの他地域の影響を受けた土器も出土しており、南作遺跡の縄文のムラを考える上で重要な資料となっています
※縄文時代中期中葉の土器2点に付着していた炭化物の年代測定を行った結果、約4千4百年前という結果が得られています。
貯蔵穴
貯蔵穴図(上:平面・下:断面)
阿玉台式土器
北陸の影響を受けた土器